慶早新人弁論大会
〇慶早新人弁論大会
慶應義塾辯論部、早稲田大学雄弁会より5名ずつ弁士をだし、計10名の新人弁士が登壇する大会。
運営は慶應・早稲田の交互に行われ、慶應が主催の場合三田演説館にて雄弁を振るうことができる。
2014年度で62回目を迎えた本大会は慶應義塾辯論部が主催した。
慶應義塾辯論部、早稲田大学雄弁会より5名ずつ弁士をだし、計10名の新人弁士が登壇する大会。
運営は慶應・早稲田の交互に行われ、慶應が主催の場合三田演説館にて雄弁を振るうことができる。
2014年度で62回目を迎えた本大会は慶應義塾辯論部が主催した。
〇第62回大会(主催 慶應)
日吉会より登壇
・新井敬大弁士(法1)<第3席>
・澤野亮太弁士(商1)
・渡辺敬太(商1)
日吉会より登壇
・新井敬大弁士(法1)<第3席>
・澤野亮太弁士(商1)
・渡辺敬太(商1)
大会趣意
第62回慶早新人弁論大会実行委員長
経済学部二年 周彦甲
さまざまな面においてグローバル化が囁かれる昨今、学生弁論とは最早時代遅れなのでしょうか。情報ツールの多様化によって我々は簡単に社会問題を知ることができ、どうすべきか自ら考えることなく容易にみつけることができるでしょう。演壇に立ち聴衆に向かい、いかに重要かつ喫緊性を帯びたものであるか、そしてそれに対し我々はどうすべきと警鐘を鳴らすという行為は古いのかもしれません。
国内に目を向ければ少子化高齢化をはじめとした諸問題や解決のめどが立たない財政赤字、そして20年を超え30年に向かいつつある経済成長の停滞など、社会問題は両手足の指では数えきれないほど存在します。国外も同様、日本との領有権問題はじめとした外交に関する諸問題やイラクの問題、国際難民、世界的経済の不振など山積しております。しかしグローバル化によりこれらの問題の情報であふれかえり流される現在、そこに人々の真摯に向き合う姿勢、思いはあるのでしょうか、本当に内なる心から助けたい、解決したいという思いが存在するのでしょうか。
弁論とは聴衆の前で自らの意見を述べ、聴衆と議論することであります。演説もこの一種であるでしょう。古代ポリスにおいても明治維新後の激動にあった日本でも弁論・演説は社会を動かす重要なファクターでもありました。心からの熱い思い、真摯な姿勢を持って聴衆に臨むこと成し遂げられることもあると歴史は証明しているのです。
我々は一度原点に戻る必要があります。人の言葉から、姿勢から感じられる熱意に聴衆は議論という名の野次で応えます。ここで大事となるのは重さのない情報ではなく、重い言葉によって人は説得されるのです。古いと言われるだろう、恰好悪いと言われるだろう。しかし、これこそがまさに社会問題に真摯に向き合う若者の姿ではないでしょうか。
将来の日本を背負う慶應義塾辯論部、早稲田大学雄弁会の門を叩いた新入部員たちが、いかなる社会問題に対し雄弁をふるい我々を感動させるのだろうかと期待しまして、今回で62回目と続く伝統ある慶早新人弁論大会の趣意とし結びとさせていただきます。
辯論部部長挨拶
慶應義塾辯論部部長 昭和61年卒
法学部政治学科教授 片山杜秀
「回想と期待」
早稲田と慶應は永遠のライバルです。早稲田なくして慶應なく、慶應なくして早稲田なし。思い起こせば、私が弁論大会に初めて出場したのも、本日と同じシチュエーションでありました。1982年。三田の演説館。1年生になりたてで、いきなり大それた場に放り込まれる。戸惑い、あがき、最後は開き直る。大変な人生経験でした。上級生たちの野次も上手なもの。歌舞伎役者に大向こうから声が掛かるような、タイミングのよい一言で、弁士をたじろがせました。まさに「寸鉄人を刺す」。出場弁士は今と同じく両校5人ずつでしたでしょう。
当時は自民党長期政権時代。総理大臣は鈴木善幸。「金権政治打破」や「日米同盟見直し論」といったテーマが世間を賑わせてはいました。しかし、果てしなく続くように思われていた「米ソ冷戦」のもと、世界の秩序はそれなりに安定しているようにも見え、中国の躍進等もまだ未来の話で、今から思えば政治や経済に差し迫った課題は少なく、要するに幾分呑気だったのでしょう。慶應でも政治的関心を持った学生は少ないように思われ、私の入った法学部政治学科は不人気学科の代表格でした。弁論部の部員数も長期減少傾向。早稲田との新人弁論大会の出場者集めに苦労する年も珍しくありませんでした。
けれども早稲田の雄弁会は違っておりました。職業としてはっきりと議会政治家を志望する。そういう学生が結集し、熱気に包まれておりました。慶應の弁論部とは部員数も桁違い。政治的無関心が立ち込めた時代であっても、政治家になりたい若者はきちんと居るもので、そんな若者を日本中からかき集める力を、雄弁会は持っていたのです。もちろん今でもそうだと存じておりますけれど。
忘れられないのは、1984年の雄弁会の夏合宿。早稲田大学の軽井沢のセミナーハウスで行われ、慶應の弁論部からもオブザーバーとして何人か参加しました。そういう交流があったのです。訪ねて驚いたのは、雄弁会のメンバーが「派閥単位」で行動していたこと。噂には聞いていましたが、目の当たりにすると衝撃でした。何しろ大勢なので、派閥に分かれて意見を集約しておかないと、組織が動かない。総会も傍聴しましたが、やはり派閥ごとに固まって座り、意見を言い合う。何から何までびっくり。酒宴も共にし、夜はコテージに泊まりました。早稲田の軽井沢の施設には何棟ものコテージが草原に散らされて建っている贅沢な空間があります。その一棟を慶應の宿に借りて貰ったのです。
「雄弁会はやはり並大抵ではないぞ」。同輩・後輩と話しながら、窓の外を眺めると、人影が暗がりの中を行き来している。コテージからコテージへと走ってゆく。「あれは何をしているのですか」。雄弁会の接待役に尋ねました。「明日の幹事長選挙に備えて派閥間で票の奪い合いをするので、この時間は使者が走るのです」。雄弁会への驚きは絶頂に達しました。クラブ活動自体が大政党の何から何までを模倣しているのだ。大変なトレーニングになっている。雄弁会が代議士を量産できる秘密を垣間見た思いでした。
ちょっと昔話を申しました。伝統あるこの弁論大会が、今年も無事に年輪をひとつ刻めますことは本当に喜ばしく、関係各位に深く御礼を申し上げます。名演説と痛快な野次と活発な質疑応答を期待致します。
第62回慶早新人弁論大会実行委員長
経済学部二年 周彦甲
さまざまな面においてグローバル化が囁かれる昨今、学生弁論とは最早時代遅れなのでしょうか。情報ツールの多様化によって我々は簡単に社会問題を知ることができ、どうすべきか自ら考えることなく容易にみつけることができるでしょう。演壇に立ち聴衆に向かい、いかに重要かつ喫緊性を帯びたものであるか、そしてそれに対し我々はどうすべきと警鐘を鳴らすという行為は古いのかもしれません。
国内に目を向ければ少子化高齢化をはじめとした諸問題や解決のめどが立たない財政赤字、そして20年を超え30年に向かいつつある経済成長の停滞など、社会問題は両手足の指では数えきれないほど存在します。国外も同様、日本との領有権問題はじめとした外交に関する諸問題やイラクの問題、国際難民、世界的経済の不振など山積しております。しかしグローバル化によりこれらの問題の情報であふれかえり流される現在、そこに人々の真摯に向き合う姿勢、思いはあるのでしょうか、本当に内なる心から助けたい、解決したいという思いが存在するのでしょうか。
弁論とは聴衆の前で自らの意見を述べ、聴衆と議論することであります。演説もこの一種であるでしょう。古代ポリスにおいても明治維新後の激動にあった日本でも弁論・演説は社会を動かす重要なファクターでもありました。心からの熱い思い、真摯な姿勢を持って聴衆に臨むこと成し遂げられることもあると歴史は証明しているのです。
我々は一度原点に戻る必要があります。人の言葉から、姿勢から感じられる熱意に聴衆は議論という名の野次で応えます。ここで大事となるのは重さのない情報ではなく、重い言葉によって人は説得されるのです。古いと言われるだろう、恰好悪いと言われるだろう。しかし、これこそがまさに社会問題に真摯に向き合う若者の姿ではないでしょうか。
将来の日本を背負う慶應義塾辯論部、早稲田大学雄弁会の門を叩いた新入部員たちが、いかなる社会問題に対し雄弁をふるい我々を感動させるのだろうかと期待しまして、今回で62回目と続く伝統ある慶早新人弁論大会の趣意とし結びとさせていただきます。
辯論部部長挨拶
慶應義塾辯論部部長 昭和61年卒
法学部政治学科教授 片山杜秀
「回想と期待」
早稲田と慶應は永遠のライバルです。早稲田なくして慶應なく、慶應なくして早稲田なし。思い起こせば、私が弁論大会に初めて出場したのも、本日と同じシチュエーションでありました。1982年。三田の演説館。1年生になりたてで、いきなり大それた場に放り込まれる。戸惑い、あがき、最後は開き直る。大変な人生経験でした。上級生たちの野次も上手なもの。歌舞伎役者に大向こうから声が掛かるような、タイミングのよい一言で、弁士をたじろがせました。まさに「寸鉄人を刺す」。出場弁士は今と同じく両校5人ずつでしたでしょう。
当時は自民党長期政権時代。総理大臣は鈴木善幸。「金権政治打破」や「日米同盟見直し論」といったテーマが世間を賑わせてはいました。しかし、果てしなく続くように思われていた「米ソ冷戦」のもと、世界の秩序はそれなりに安定しているようにも見え、中国の躍進等もまだ未来の話で、今から思えば政治や経済に差し迫った課題は少なく、要するに幾分呑気だったのでしょう。慶應でも政治的関心を持った学生は少ないように思われ、私の入った法学部政治学科は不人気学科の代表格でした。弁論部の部員数も長期減少傾向。早稲田との新人弁論大会の出場者集めに苦労する年も珍しくありませんでした。
けれども早稲田の雄弁会は違っておりました。職業としてはっきりと議会政治家を志望する。そういう学生が結集し、熱気に包まれておりました。慶應の弁論部とは部員数も桁違い。政治的無関心が立ち込めた時代であっても、政治家になりたい若者はきちんと居るもので、そんな若者を日本中からかき集める力を、雄弁会は持っていたのです。もちろん今でもそうだと存じておりますけれど。
忘れられないのは、1984年の雄弁会の夏合宿。早稲田大学の軽井沢のセミナーハウスで行われ、慶應の弁論部からもオブザーバーとして何人か参加しました。そういう交流があったのです。訪ねて驚いたのは、雄弁会のメンバーが「派閥単位」で行動していたこと。噂には聞いていましたが、目の当たりにすると衝撃でした。何しろ大勢なので、派閥に分かれて意見を集約しておかないと、組織が動かない。総会も傍聴しましたが、やはり派閥ごとに固まって座り、意見を言い合う。何から何までびっくり。酒宴も共にし、夜はコテージに泊まりました。早稲田の軽井沢の施設には何棟ものコテージが草原に散らされて建っている贅沢な空間があります。その一棟を慶應の宿に借りて貰ったのです。
「雄弁会はやはり並大抵ではないぞ」。同輩・後輩と話しながら、窓の外を眺めると、人影が暗がりの中を行き来している。コテージからコテージへと走ってゆく。「あれは何をしているのですか」。雄弁会の接待役に尋ねました。「明日の幹事長選挙に備えて派閥間で票の奪い合いをするので、この時間は使者が走るのです」。雄弁会への驚きは絶頂に達しました。クラブ活動自体が大政党の何から何までを模倣しているのだ。大変なトレーニングになっている。雄弁会が代議士を量産できる秘密を垣間見た思いでした。
ちょっと昔話を申しました。伝統あるこの弁論大会が、今年も無事に年輪をひとつ刻めますことは本当に喜ばしく、関係各位に深く御礼を申し上げます。名演説と痛快な野次と活発な質疑応答を期待致します。